龍ヶ崎カントリー倶楽部の歴史
倶楽部設立の発端
~龍ヶ崎市の魅力を多くの人々に知ってもらうために~
空前のゴルフブームが到来して、ゴルフ人口が激増していた頃の日本。龍ヶ崎市でのゴルフ場建設というアイデアを最初に立案したのは、荒井源太郎・元龍ヶ崎市長でした。
「将来の市の発展のために、より多くの人々に市の良さを知ってもらい、つながりをつくっていく必要がある。そのために龍ヶ崎市内にゴルフ場を」。
昭和31年、荒井市長は当時就任1年目でしたが、首都圏整備法が公布されたことも後押しし、企業誘致・住宅地の造成なども見越した活性化施策の一環として、市議会でも満場一致で可決されました。
そして市長は、この構想を実行に移すにあたって、議員時代から親しい仲の友末洋治・茨城県知事に相談をします。友末知事は、当時、先の昭和28年に開場した県下唯一のゴルフ場、大洗ゴルフ倶楽部の会長でした。また大洗の設計を井上誠一氏に依頼した張本人でもありました。友末知事は「井上誠一さんに場所を見てもらったうえで、引き受けてくれるかどうかで判断しましょう。もし井上さんがノーという結論だったらやめましょう」と提案します。
荒井源太郎市長 | 友末茨城県知事 |
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早速、井上氏に龍ヶ崎まで来てもらい、建設予定地の雑木林をまる一日視察してもらったところ、「面白いですね、やりましょう」と前向きな結論に至りました。
「ここ龍ヶ崎の地は、関東平野の平坦部のコースとしては最も変化に富んだ地形に恵まれており、その面積も十分にゆとりがある。これなら、あるがままの自然を極力活かしながら、きわめて変化に富んだコースに仕上げることができる」と太鼓判まで押してくれたそうです。
初代理事長の誕生
~初代理事長の哲学は「宿屋のおやじ」~
その後、県庁において友末知事、荒井市長、井上誠一氏の3者会談が開かれ、具体的な推進方法が検討されました。ゴルフ場建設には莫大な資金が必要ですし、会員を募集しなければいけません。中央の財界著名人の協力なしに、この計画は実現しないと考えられました。
倶楽部の発起人の筆頭候補として、龍ヶ崎市の出身で人徳者としても名が高く、郷土のみならず中央の政財界においても影響力の強かった日本鋼管社長、河田重氏に白羽の矢が立ちました。
河田社長は、明治20年生まれ。当初は「ゴルフはやらない、興味もない。そのうえ資金や会員募集、用地買収など難問が多い」として、協力に対して簡単に首をタテに振りませんでした。荒井市長は郷土にゆかりのある知名人、財界人の多くに根回しをしながら、やっと河田社長の協力を取り付けることが出来ました。協力を取り付けるまでに荒井市長は37回の訪問を果たしたという逸話も残っています。
日本鋼管(株) 河田社長 |
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こうして昭和32年11月12日に、龍ヶ崎カントリー倶楽部創立総会が開催され、河田社長が初代理事長に就任しました。ゴルフをしない河田理事長の哲学は「宿屋のおやじ」でした。自らはプレーしないものの、プレーヤーの方々には徹底してサービスを尽くし、楽しい一日を過ごして貰いたいというサービス精神を貫き、どんなに忙しくても理事会は欠席されなかったということです。
設計者 井上誠一
~龍ヶ崎に至る井上誠一氏のストーリー~
井上誠一氏は明治41年、東京の眼科の名医の家に生まれました。祖父は明治天皇の侍医であり、「井上大学目薬」といえば世間では知らない人はいなかったそうです。成蹊高校在学中に「眠り病(嗜眠性脳炎)」という、死亡率90%以上といわれた難病にかかってしまいます。かろうじて九死に一生を得たものの、脊髄を悪くして学業を中断。このことが井上氏の人生を大きく転回させました。
「治療の運動には、腰を使うゴルフが一番よい」と聞き、叔父に連れられてゴルフ場に行ったのが、ゴルフとの最初の出会いでした。間もなく井上氏は、叔父の紹介で霞ヶ関カンツリー倶楽部が新しく作る西コースを手伝うことになります。藤田欣哉氏の設計による西コースの新設と、英国人チャールズ・H・アリソンによる東コースの改修が決定したのは昭和5年。井上氏は西コースの事実上の工事責任者として熱心に働いたそうです。ちょうど同時期に、東コースの改造工事がアリソン指揮の下に始まっていたので、井上氏はアリソンチームの仕事ぶりを誰よりも細密に見届けることができました。アリソンは同時期、廣野の設計にも携わっており、井上氏自身も建設が始まったばかりの廣野へも出向いています。
井上誠一氏 |
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日本のゴルフコースの基礎を築いたと言われるアリソンの設計思想は、①自然の地形の特色を生かし、コースは自然との調和が図れるよう植物の植生、土壌、水系などの現地調査を行ってから設計すること、②各ホールの距離、地形、ハザードの位置、グリーンの形状、アンジュレーションに個性を持たせ、1番から18番ホールまで流れがあり、戦略型のコースであること、③日本伝統の造園技術(特に日本庭園)を学び、コースの造成に生かすこと、④コース設計家の使命とは、与えられた地形から最大限の上品と優美を引き出すことであること、という4つの理念の融合です。その思想に多大な影響を受け、理念を受け継いだのが井上誠一氏だと言われています。
ベントグリーンとコーライグリーンの2グリーン制の導入は、井上誠一氏の発案したものでした。ベントグリーンの採用はアリソンの影響ですが、洋芝であるベント芝は高温多湿な日本の夏に耐えきれません。その対策として、年間を通してベストな状態のグリーンを楽しんでもらいたいという発想からコーライグリーンとの併用を考えたのでした。
井上氏個人としては、昭和11年、那須ゴルフ倶楽部の設計において、那須六峰を仰ぐ高原の複雑な起伏を巧みに利用しながらクリーピングベントの先進的なグリーンを導入するなど、ゴルフコースの傑作と話題になったことで名声を獲得。その後、戦争をはさみながら、現在においても評価の高い、大洗ゴルフ倶楽部、日光カンツリー倶楽部などを造成して、ゴルフ場設計者として非常に脂の乗った状態で、龍ヶ崎カントリー倶楽部の設計へと繋がっていくのです。